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廃墟のなかに蘇る星のコーラス

Ruins & Stardust

ヨシダ・ヨシエ (美術評論家・詩人)
日本橋の画廊に展示されたキノコ雲の前にたたずむたべ・けんぞう 
 もう30年も前のことだ。
 広島は太田川の岸に、たべ・けんぞうは高さ2メートルほどの箱の作品を置いて、なかに据えつけたステンレスの椅子に、わたしを座らせた。箱には目の高さに切れ目があって、その隙間から夏の陽ざしにきらめく川面をみるのである。まだ焼跡だらけだった被爆まもない広島を記憶しているわたしのまなざしには、光芒のゆらぎだけが映った。その光の乱舞のなかに、記憶の廃墟が、わが大脳の前頭葉でかさなりあい、時間がゆれるのだ。
 たべ・けんぞうの想像力の世界へのイントロはこんな情景から始まったのだが、先程、箱の作品と記したけれども、作品とはこの場合、箱だったのか、そこからみえる世界だったのか。そのすべてを包む彼の想像力のありようであったのだろう。
  戦後早々、新橋の一帯にひろがる騒然たる闇市をほっつき歩き、銀座中央通りへ出ると、焼け残っ

に、スカーフを髪に巻いて咥え煙草の変貌したヤマトナデシコが群れ集まる僅かなビルを除いて、日本橋・神田方面まで一望できる廃墟がひろがっていたものだ。あれから半世紀以上も経ち、現在の銀座を歩いても、目前の繁栄の高層ビル街がふっと消えて、辺り一面に廃墟がよみがえるような気がすることがある。遠い記憶をなつかしんでいるわけでもなければ、わたしの目が老いさらぼうたことによるわけでもあるまい。都市の意匠など儚いものではなかろうか。ローマやメキシコの廃墟をうろつきながら、わたしはもっと果敢ないわたしの肉の鼓動を想ったこともあったっけ。廃墟には、生命の燃えさかる夏の陽ざしがかなしくも似合い、廃墟を覆う闇には満点の星のきらめきが似つかわしい。

た服部時計店(現・和光)はアメリカ占領軍のPX(Post exchange=売店)で、これも米軍専用のライオン・ビアホールなどと一緒に、スカーフを髪に巻いて咥え煙草の変貌したヤマトナデシコが群れ集まる僅かなビルを除いて、日本橋・神田方面まで一望できる廃墟がひろがっていたものだ。あれから半世紀以上も経ち、現在の銀座を歩いても、目前の繁栄の高層ビル街がふっと消えて、辺り一面に廃墟がよみがえるような気がすることがある。遠い記憶をなつかしんでいるわけでもなければ、わたしの目が老いさらぼうたことによるわけでもあるまい。都市の意匠など儚いものではなかろうか。ローマやメキシコの廃墟をうろつきながら、わたしはもっと果敢ないわたしの肉の鼓動を想ったこともあったっけ。廃墟には、生命の燃えさかる夏の陽ざしがかなしくも似合い、廃墟を覆う闇には満点の星のきらめきが似つかわしい。
 ところでその後、たべ・けんぞうは、視覚を通して記憶と現在を結びつけるような装置
から、しばらく離れていた。自らの想像力の原点を凝視めなおすような試みというべきか、
核爆発が惹起する現象を直視し、あるいはその渦中に自ら立ち会うふうな作品群が、以後80年代までつづいたのである。
 1973年夏には、日本橋の画廊
に80キロの蝋を使い、高さ3メート
ル、直径3メートルのキノコ雲を作
り、その内部に仕掛けた光によっ
て天井を突き破らんほどの雲塊
を通して、人類の前に立ちはだか
る光の意味を問い、それにつづい
て8月6日、画廊で撮影したキノコ
雲をスクリーンに映し、 爆心地に
近い広島の産業奨励館の前の太
田川の川面に投影した。 その後、
つぎつぎとフィギュアとしてのコン
クリート(具体的)な作品を発表し、
その集大成ともいうべき『オレンジ・オペレーション』が1982年に発表される。これは核爆発直後の家族の情景の瞬間をスーパーリアリズムふうに画廊のなかに再現したもので、当時大きな衝撃を観たものに与えた大作であった。この作品はエドワード・ルーシー・スミスとの共著『ART NOW』の石崎浩一郎の記録が記憶される。

 そして、すべてが終わったのだ。
 そして、すべてが始まったのである。

 栄華の都市は、おびただしい廃墟の種子をバラ撒く。数年前の調査だが、回収利用されたり焼却・蒸発などで減容化されるものを除いて、毎年約1億5000万トンの産業廃棄物がどこかに捨てられてゆく。これは日本国内だけの数字だ。廃墟予備軍は、ゆっくりと地球全体にひろがりつつある。その上、原子力発電所の運転で、ハイレベル放射性廃棄物まで、ご苦労なことだが、大量に生産してくれる。強い放射能を持つこの廃棄物の核種は長寿命で、ウラン鉱の放射能レベルまで下がるのにほぼ1万年かかる。
   すべてが終わるかもしれない予感のなかで、たべ・けんぞうは、すべての始まりに着手したのだ。
            
EVENT IN HIROSHIMA 原爆ドーム前、太田川に設置したスクリーンにたべけんぞうが映し出したキノコ雲
たべ・けんぞう作品「BEATLE SIDER」おんじゅくフロンティア・マーケット牛舎8号

​EVENT IN HIROSHIMA

BEATLE SIDER​

Photo by Satoru Kouno

 ジャンク・アートといわれるジャンルの作品はダダやシュルレアリスムのオブジェに先駆的な例がみられるが、現代文明が吐瀉するおびただしい廃棄物を積極的に作品化して、既成の美意識に攻撃をかけたのは、アメリカのリチャード・スタンキヴィッチなどをはじめとして、色彩ゆたかなジョン・チェンバレン、ポンコツ車をプレスしたフランスのセザール、そして1960年にニューヨーク近代美術館で、みずから崩壊してゆくマシーン・ハプニングををみせたスイス生まれのジャン・ティンゲリーなどがおもい浮かぶけれども、たべ・けんぞうの最終思考の洗礼を受けたコスモロジーとは、近いようにみえて遠い世界なのである。それは廃材を蒐集してよみがえらせたというリサイクル・アートのもつヒューマニズムも超えてしまっている。それは観る者の心をあたたかくするポエジーを感じさせるが、廃墟の不具のものたちがむすびついて、いっせいに唄いはじめるコーラスによる、きらめく星の物語りなのである。世界が廃墟に埋めつくされて、愚かな人類が消滅してしまった夏の夜に奏でられる星の合唱であり、あらたな神話の黙示録なのである。その予兆を聴きわける、これはあたらしい装置なのであり、ものみな息絶えたあとにきらめく宇宙の声のモデルであり、ノーマンズ・ランドのインスタレーションなのである。
 あなたは遠くから近付いてくるあたらしい神話を聴くことが可能だろうか。

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